Vol.51 「感覚的に判断している」領域をどう指導していくべきか

今回のご相談内容

マニュアルで教えられないこと、「まぁ感覚なんだよなぁ」と思うような領域を、どう部下たちに伝えていくべきでしょうか。

特に後継者や幹部たちに対して、事業承継も視野にいれながら、「数字の感覚」「経営の感覚」みたいな勘どころをどうやってわかってもらうかというところに頭を悩ませています。

やっぱり経験を積んでもらうしかないんですかね?

マニュアルで教えられるようなものではないよなと思いつつ、「それは感覚なんだよなぁ」と言われて困る部下たちの気持ちもよくわかるので、もう少しうまく伝えてやれないものかと考えています。

    

石川からのご回答

つい言いたくなってしまう「○○なんだよなぁ」はNG

仕事において、「感覚なんだよなぁ」とつい言いたくなってしまう領域もどうしてもあることはよくわかります。

しかし、まず個人的には「マニュアルで教える」ということを、とことん突き詰めることはとても大事と思っています。言語化の努力ですね。
   

イメージ的には、故野村克也監督を思い出すんですけれど、「前の打席がどうだったら次の打席はこう」とか「前の一球がこうだったら、次の球はこう」みたいなことを、非常に細かく、言語化して伝えていたのではないかという気がします。

それは、多くの指導者が「まぁ、ここから先は感覚だよな」と思ってしまうようなところを、感覚任せにせずに、しっかり言語化していった。

これはたぶん「選手・野村克也」の特徴でもあったのじゃないかと推察しますが、「監督・野村克也」としても、大きな特徴であったんじゃないかみたいなイメージを持っています。
   

例えば私も、ファシリテーションをしていて「感覚的に判断している」ことはあります。

でも、例えば後輩が同席していて「どうして、あそこであの発言になったんですか?」「どうして、あそこで黙っていたんですか?」と聞かれたら、基本的にはどの質問にも「それはね・・・」と言語化して返すようにしています。

そして、見ている変数

  • 「Aさんの表情」
  • 「これまでのBさんとCさんの関係性」
  • 「このテーマにおける社内の状況の推察」
  • 「Dさんの意見」
  • 「石川自身の価値観や好み」
  • 「X案になった場合の未来のリスク」

・・・・・などなど、たくさんあり、そういった全ての変数を踏まえて「今ここで、Aさんの意見をちょっと止める」みたいなことをするわけですができるだけそういったことを言語化します。

もちろん、言語化しえない部分は残るわけですが、でも、極力、言語化する努力をする。それは指導する側の責任というか、「指導する」ということは、そういうことだと私が思っているところが多分にあります。
   

もう一つ、その自分の中の暗黙知を形式知化(言語化)するということは、自分の成長のためにも重要であると思っています。

つまり、形式知化することで、自分自身の捉えている変数が足りないのではないかとか、もっとほかによい判断があったのではないかと、吟味することができます。これが暗黙知のままだと、そうことがほとんどできません。

だから、原則「感覚なんだよなぁ」ということは言わないようにしています。それは、相手のためでもあり、自分のためでもあるのです。
   

   

「マニュアルを作成する」ということの限界はある

体験を共にせずに、文章だけで共有する、つまり「マニュアルを作成する」ということの限界はあります。

上記のような「どうしてさっき、X案がいいって言ったんですか?」という体験を共にした土台がある指導だと、かなり細かいケースバイケースについて伝えることができます。しかし「マニュアルを作成する」というレベルだと、この細かさの情報量をすべて乗せるというのは至難の業です。

だからどうしても「代表的な事例」といったことを載せて、「その場その場で、本当にいろんな変数を見ながら判断しているんだな」と”感じて”もらうよう努力するしかありません。

マニュアルを読んだ人が「判断するのに必要な変数は、ここに書いてあるので全てなんだな」と思われると、本当に伝えたいところは抜け落ちてしまう可能性は高いでしょう。「マニュアルだけを読んで学ぶ」ことの限界は、どうしてもその辺りにあります。
   

既に述べてきたように「マニュアルだけを読んで学ぶ」以上の学びを提供するには体験を共にした「生きた教材」を使いながら、言語化して伝えていく、ということになりますが「言語化できない感覚」ということについてはどうしたらよいでしょう。
   

スポーツの世界などでよく言われる量稽古

例えばプロゴルフ選手において「ダウンスイングで、完全に脱力する感覚」みたいなことを、自分自身は持っているけれども、それを弟子に伝えられない、言語化して伝えても全然真似できないみたいなことは起こります。

こういう次元の修行においては、師は弟子に、様々な方法で伝授してきたと思います。弓道や茶道、能といった芸事、ゴルフや野球などのスポーツ。そういうところでよく出てくるのは「量稽古」です。

「ダウンスイングで、完全に脱力する感覚」を言葉で伝えても、体感覚的には全然分からない。そうときに、100回も、1000回も、10,000回も素振りをさせるわけです。

それで例えば、体力の限界で疲れてきて、脱力しないと振れないみたいなのを見て取って「お。今の。(が脱力スイング)」と伝える。

そうすると弟子の方も「うわー、今の体感覚かぁ!」ってなる。そういう指導法ですね。
    

フォーカスポイントを変える

フォーカスポイントを変えるというようなこともあります。

例えば、テニスで、ラケットをスムースに触れていないというような状況があった時に、選手本人はどうしても「ラケットを振る」という腕の動きや、上半身の動きにフォーカスしがちです。

そこで、本人には理解できなくても「下半身の動かし方だけに意識を向けさせてトレーニングする」とか「打つ、ということではなく、身体の柔軟性を高めるトレーニングをする」とか、ということを”させる”こともあると思います。

そうして「感覚」を掴んでもらう。
   

ときには心身を整える瞑想なども活用する

瞑想すると、脳波の状態に変化が生じます。生理学的に、実際問題として瞑想は「効果」があります。まぁ、会社に脳波計があるわけじゃないので、それを測ることはできないとは思いますが、例えば、経営の後継者に瞑想をさせます。

瞑想前の脳波の状態で選ぶ選択肢、例えば「A案がいいと思う」ということと、瞑想して脳波が変わった状態で選ぶとどうなるかそうすると「B案の方が絶対いい。みたいになることもあります。もちろん「やっぱりA案だ。確信した」みたいなこともありえます。

これも、言語によっては伝えられないところですが、体験すると、体験した本人は、体感覚的に「わかる」ようになります。そのようにして「マニュアル化、言語化できないものを伝授する」という方法もいくつか存在していると思います。
   

ちなみに、この言語化できない、体感覚的なものを伝授するという場合には、必須の前提条件があります。

それは、弟子の方が、師匠を、師匠として信頼している、ということです。言語的な世界は「理解する」ものであって理解できなければ「反論する」ということが許されている世界です。

ところが、この体感覚的なものは「理解する」ことができません。自分の体感覚的に「わかった!」となるまでは、全くもって「わからない」ままのものです。

「本当にそんな感覚あるんですか?」と聞かれても「ある」としか答えられません。「でも、ないと思うんですけど」と反論されても「あるものは、ある」「お前はまだ分かっていないだけだ」としか言いようがないわけです。

そのようなものを授受しようとする場合には、どうしても信頼関係という前提条件が必須になります。

   

ご質問に対する回答は以上となります。

いつも最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。

[Vol.51 2020/09/15配信号、執筆:石川英明]