”公正な評価”という幻想
今回のテーマは、「評価制度」についてです。
「公平に評価してもらいたい」という欲求はかなり強いものがあります。これは、多くの会社に関わらせていただいて感じている偽らざる気持ちです。
社員は評価の公平さを求めていて、「不公平なのではないか」という疑念があると、それが著しく社員の労度意欲を削いでしまうのです。
結論から言ってしまえば完璧に公正な評価などありえません。もし「完璧の公正な評価」だったとしても、それは実用的でなかったり、効果的でなかったりしてしまいます。
ですから、実はまずは「完璧に公正な評価などない」 ということを社員に理解してもらうことが、経営上重要なところになるのです。
今回は、それは前提としたうえで「とはいえ、いかに公正な評価を行うか」というところに焦点を置いて話をしたいと思います。
Contents
社員が「公正な評価である」
と感じる2つの要素
まず、社員の立場からして「公正な評価である」と感じるには次の2つの要素が必要になります。
1.自己評価と上司評価のずれがなく公正である
2.同僚との評価のブレがなく公正である
自己評価と上司評価の
ずれがなく公正である
1については、解決策はシンプルと言えばシンプルです。
「ちゃんと上司と部下でコミュニケーションをとること」これに尽きます。
例えばですが、親子関係にたとえてみましょう。
「月々のお小遣いを500円増額するにはA評価をとる必要がある。B評価の場合は100円増額。C評価の場合は0円の増額」
A評価とは、5教科350点以上、遅刻なし、風呂掃除毎日実施
B評価とは、5教科250点以上350点未満、遅刻1回まで・・・
C評価とは・・・
などとなっていたとします。
こういった評価基準が明確であれば、子供のほうが「自分ではA評価だと思う!」と言い、親からして「いや、C評価だ」という乖離はほとんど起きません。
これは、評価観点と、評価レベルの具体性の問題です。
「そもそもこの評価観点では納得いかない」
「この評価観点は削るべきだ」
「この評価観点を足すべきだ」
「A評価は300点以上に緩和すべきだ」
といったことも含めてコミュニケーションでき、そのうえで「よしこの評価制度でいこう」という納得感を持てていれば、1の公平性については実質的に担保されます。(逆に言えば、そのコミュニケーションをさぼれば、公平性は担保されません)
同僚との評価の
ブレがなく公正である
難しいのは2の「同僚との評価の公平性」の問題です。
営業の仕事のように、成果が定量的に分かるものであれば公正に比較することもまだしやすいでしょう。
Aさんは売上実績200万円だからA評価。
Bさんは売上実績120万円だからB評価。
といったことが公正に判断しやすくなります。
しかし、これもまた「Aさんは、先輩から引き継いだ安定顧客200万円を維持しただけ。」「Bさんは、何もないところから新規顧客を開拓して120万円にした」といったことになれば、金額だけでの評価で”公正”なのかは、とても難しくなります。
これが、さらに職種をまたいで「3年目の営業社員と、3年目の経理社員」のどちらかがA評価で、どちらかがC評価、というようなことになれば、これはさらに難しくなります。
難しいというか、もっと言ってしまえば「公正に評価するなどというのは、無理。幻想。」と言ったほうがよいでしょう。
しかし社員に公平さを求める欲求がある以上無視はできませんし、経営としてはできる限りの努力はすべきです。
となると現実的には
「3年目の営業社員のA評価、B評価、C評価のデータの蓄積」
「3年目の経理社員のA評価、B評価、C評価のデータの蓄積」
「それぞれの仕事の難易度の横串の調整」
をしていくほかありません。
営業部長と、経理部長とで「まぁ、経理の3年目でこれくらいの仕事ができるってことは、営業でいうとこれくらいの仕事ができる、ってことに該当するね」ということを話し合って調整するしかないのです。
しかしこれは本当に難しいことで
「サッカーを3年間やってきた小学3年生」と
「ピアノを3年間やってきた小学3年生」を
公平に、同一評価システム上で評価しましょう、と言っているようなものなのです。
しかし、その努力を積み重ねることで、例えば営業部長は、部下から「なんか経理に配属されたやつのほうが仕事が簡単で、A評価をとりやすくてずるくないですか?」といった不満が出てきたときに、「いや、そんなことないんだよ。あの経理の仕事はそれはそれで結構難しくてね・・・」と説明ができるようになり、社員の「公平な会社なんだな」という納得感を高めることができるようになるわけです。
どこの組織でも「あの人は、私より評価されていてずるい」といった不満は生じるものですが、それは放置しておくと組織を腐らせていく大きな問題になりかねません。
究極的には「本当に公正な評価」というのは幻想なのですが、それでも「できるだけ公正に近い評価になっている」ということを担保する努力は必要になるでしょう。
社員が抱く「本当に公正な評価」
という幻想を打破する
一方で「公正な評価をすべきだ」「公正な評価ができるはずだ」と思い込んでいる社員の幻想を打破していく、というアプローチもとても重要なものになります。
公正に評価してほしいという気持ちは分かりますし、例えば大学受験で「不正」があっては勿論いけません。
だからこそ「正解がはっきりしているものだけ出題する」ことによって、その公平性を担保しているのが”試験”というシステムです。
しかし、実際にはビジネスはそんなには単純ではなく「試験」によって、ビジネスの実力や貢献度が測れるようなものではありません。
公務員試験や昇格試験といった考え方は、公平性を重視した際に出てきたものでしょう。
「試験」は確かにある意味では公平になるのですが、実態をしっかりと測定できるかというと、そんなことはありません。
例えば「TOEICのスコアで給料を決める」とすれば、ある意味とても公正にはなるかもしれませんが、だれもその公正さには納得できないでしょう。
プロ野球的評価システムは
ビジネスでは機能しない
そうすると今度は出てくるのが「プロ野球的評価システム」という発想です。
打率、打点、出塁率、長打率、出場イニング数・・・・などなど、あらゆる定量データを取得し、それによって選手を評価し、年俸を決めるというやり方です。
確かにこれは公正かつ、納得感の高いものになりやすいものです。評価システムとしてはとても洗練されているかもしれません。
しかし「プロスポーツ的評価システム」は、実ビジネスには全く向いていません。というか、ほぼ無理なのです。そのことが分かっていないビジネスパーソンはたくさんいます。
スポーツの種類でいうと、野球は最もデータを取得しやすい類のスポーツです。
なぜなら「投手対打者という1対1を基本としている」「動きが極めて静的である(サッカーやラグビーのような流動性がない)」といった特徴があるからです。
自チームから9人しか選手が出ず、かつ攻撃の時は一人ずつしか出番がなく、極めてデータがとりやすい上に、年間144日しか(評価対象となる)仕事をせず、かつ1日2時間程度の労働時間なのです。
このような特殊な仕事は、実ビジネスにはまずありません。
社員が100人の会社が、社員が1日8時間一生懸命仕事をしていたとしたら、3日だけで2400人時の稼働があります。それを的確にデータをとるなんてできません。
プロ野球は年間で2700人時程度の評価対象の労働時間がないのです。
もし実ビジネスで、プロ野球と同じようにデータをとろうとしたら「データ取得要員」だけで、社員と同数以上の人を雇わなくてはいけなくなるでしょう。
それだけのデータ取得要員を雇ったしてもどれほど正確に「仕事の質」を評価できるようなデータを取れるか分かりません。
・・・というようなことを、多くの”社員”は分かっていないので、ただ分かっていないだけで「公正な評価ができるはずで、公正に評価されるべきだ」という幻想を抱いてしまっているのです。
360度評価といったシステムは「評価のためのデータを増やす」ことに貢献はしますが、そうは言っても、プロ野球のような公正な評価ができるようになるはずもありません。
このこと自体を、社員に理解してもらうための努力は、本当に重要です。
宣伝になってしまいますが、これらのことを社員に理解してもらうお手伝いは私たちの大切な仕事の一つだなと最近強く認識しています。(会計士さんや社労士さん、研修講師さんなども、同じような役割も担っているのかなと思います)
このこと自体を経営者が社員に説明すると、構造上どうしても「社長が言い訳している」みたいにとられるリスクを持ってしまうからです。
公正な評価、となるよう最大限の努力はしつつも、一方で「公正な評価、などというのは幻想だ」ということを伝える教育も行う、その両面から推進していくことが非常に重要であると考えています。